萩原朔太郎の青猫
土曜日の夜、文学仲間とオンライン合評会&飲み会というものをやった。今回の対象作品は香港を舞台にした、情景描写の上手な作品だった。そこで、萩原朔太郎の短編の話がでてきたので、ふと思い出し、朔太郎の作品を青空文庫で読み始めた。 歳とったのか、よく朔太郎の心情がわかるような気になった。そんな簡単に彼の心情がわかるはずもないのだが・・・…。 大学生の頃に粋がって、郷里の詩人だからと一度だけ読んだことがあるが、月に吠えるも青猫も、当時はあまり理解できなかった。 ただただ、そういうのを読んでかっこつけたかったのだ。 新宿ゴールデン街の文壇バーへ憧れていた時代だ。 朔太郎は、慢性的な憂鬱、そして突然の気分の凹みに悩まされていた。 およそいつの時、いつの頃よりしてそれが來れるかを知らない。まだ幼《いと》けなき少年の頃よりして、この故しらぬ靈魂の郷愁になやまされた。夜床はしろじろとした涙にぬれ、明くれば鷄《にはとり》の聲に感傷のはらわたをかきむしられた。日頃はあてもなく異性を戀して春の野末を馳せめぐり、ひとり樹木の幹に抱きついて「戀を戀する人」の愁をうたつた。 青猫より そして朔太郎にとっては詩作とは彼自身のためにあった。 かつて詩集「月に吠える」の序に書いた通り、詩は私にとつての神祕でもなく信仰でもない。また況んや「生命がけの仕事」であつたり、「神聖なる精進の道」でもない。詩はただ私への「悲しき慰安」にすぎない。 生活の沼地に鳴く青鷺の聲であり、月夜の葦に暗くささやく風の音である。 青猫より 昔から私の頭に残っている詩は「群衆の中を求めて歩く」だ。 東京の喧噪や群衆が己の孤独感を癒やしてくれることを詩にしている、悲しき慰安である。